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親鸞聖人の教え

親鸞聖人が90年のご生涯をかけて私たちに教えてくださった“み教え”には、すべての人が救われていく道が説かれています。

次の「他力本願」「悪人正機」「往生浄土」の3つのキーワードで、親鸞聖人のみ教えにふれてみたいと思います。

他力本願(たりきほんがん)

「他力本願」という言葉は、浄土真宗において、み教えの根幹に関わる最も重要な言葉です。

浄土真宗の宗祖である親鸞聖人がいわれた「他力」とは、自然や社会の恩恵のことではなく、もちろん他人の力をあてにすることでもありません。また、世間一般でいう、人間関係のうえでの自らの力や、他の力という意味でもありません。「他力」とは、そのいずれをも超えた、広大無辺な阿弥陀如来の力を表す言葉です。

「本願」とは、私たちの欲望を満たすような願いをいうのではありません。阿弥陀如来の根本の願いとして「あらゆる人々に、南無阿弥陀仏を信じさせ、称えさせて、浄土に往生せしめよう」と誓われた願いのことです。この本願のとおりに私たちを浄土に往生させ、仏に成らしめようとするはたらきを「本願力」といい、「他力」といいます。

私たち念仏者は、このような如来の本願のはたらきによる救いを、「他力本願」という言葉で聞き喜んできたのです。ここにはじめて、自らの本当の姿に気づかされ、いまのいのちの尊さと意義が明らかに知らされるのであり、人生を力強く生き抜いていくことができます。

悪人正機(あくにんしょうき)

「悪人正機」とは、「悪人こそが阿弥陀如来の救いの本当のめあてである」という意味で、阿弥陀如来の慈悲のこころを表す言葉です。

阿弥陀如来は、平等の慈悲心から、すべての生きとし生けるものに同じさとりを開かせたいという願いを発(おこ)されました。だからこそ、この慈悲のこころは、今現に迷いの中で苦しんでいるものに注がれるのです。

ですから、「悪人正機」という言葉を聴いて、悪事を犯してもかまわないと開き直ったり、悪いことをしたほうが救われると考えるのは、誤った受けとめかたです。

経典には、この如来の慈悲が、<病に苦しんでいる子に特に注がれる親の愛情>にたとえて説かれています。親鸞聖人は、このような阿弥陀如来の慈悲に出遇い、その慈悲が注がれているのは、他でもない煩悩に満ちあふれた自分自身であると受けとめられました。

私たちは毎日いろいろな生き物のいのちを奪いながら生きています。また、めぐり合わせによってはどんな恐ろしいことでもしてしまいます。このような私の姿に気付かせ、同時にそのまま救い取ってくださるのが阿弥陀如来の慈悲であり、そのこころを表すのが「悪人正機」という言葉です。

往生浄土(おうじょうじょうど)

「往生浄土」とは、本来、阿弥陀如来の浄土に往き生まれることです。日常的に使われるような、途中で行きづまったまま身動きが取れなくなることではありません。

阿弥陀如来の本願には、「あらゆる人々に南無阿弥陀仏を称えさせて、浄土に往生せしめよう」と誓われています。浄土真宗の往生浄土は、この阿弥陀如来の本願のはたらきによる往生です。

親鸞聖人は、如来のはたらきにより信心を得て念仏する人は今この人生において、「必ず仏に成るべき身」(現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ))となり、命終わった時には浄土に生まれて必ずさとりに至る(往生即成仏(おうじょうそくじょうぶつ))と示されています。

私たちにとって大事なことは、この人生において如来のはたらきをうけいれること、つまり、信心を得て念仏する身にならせていただくことです。それはそのまま往生する身とならせていただくことなのです。 阿弥陀如来の本願に気づいた人は、それぞれの人生を大切に歩むことができます。

(本願寺出版社発行「親鸞さまの教えって何?」より)

親鸞聖人のご生涯

平安時代も終わりに近い承安(じょうあん)3年(1173)の春、親鸞聖人は京都の日野の里で誕生された。父は藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)、母は吉光女と伝える。聖人は養和(ようわ)元年(1181)9歳の春、伯父の日野範綱(のりつな)にともなわれて、慈円和尚(じえんかしょう)のもとで出家・得度(とくど)をされ、範宴(はんねん)と名のられた。ついで比叡山にのぼられ、主に横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)で不断念仏を修する堂僧(どうそう)として、20年の間、ひたすら「生死いづべき道」を求めて厳しい学問と修行に励まれた。

しかし建仁(けんにん)元年(1201)親鸞聖人29歳のとき、叡山では悟りに至る道を見出すことができなかったことから、ついに山を下り、京都の六角堂(ろっかくどう)に100日間の参籠(さんろう)をされた。尊敬する聖徳太子に今後の歩むべき道を仰ぐためであった。95日目の暁、聖人は太子の本地である救世観音(くせかんのん)から夢告(むこく)を得られ、東山の吉水(よしみず)で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人(ほうねんしょうにん)の草庵を訪ねられた。やはり100日の間、聖人のもとへ通いつづけ、ついに「法然聖人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」とまで思い定め、本願を信じ念仏する身となられた。

法然聖人の弟子となられてからさらに聞法(もんぼう)と研学に励まれた親鸞聖人は、法然聖人の主著である『選択集(せんじゃくしゅう)』と真影(しんねい)を写すことを許され、綽空(しゃっくう)の名を善信(ぜんしん)と改められた。そのころ法然聖人の開かれた浄土教に対して、旧仏教教団から激しい非難が出され、ついに承元(じょうげん)元年(1207)専修(せんじゅ)念仏が停止(ちょうじ)された。法然聖人や親鸞聖人などの師弟が罪科に処せられ、法然聖人は土佐(実際は讃岐)、親鸞聖人は越後(えちご/新潟県)に流罪。これを機に親鸞聖人は愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗(ひそうひぞく)の立場に立たれた。

このころ三善為教(みよしためのり)の娘・恵信尼(えしんに)さまと結婚、男女6人の子女をもうけられ、在俗のままで念仏の生活を営まれた。建保(けんぽう)2年(1214)42歳の時、妻子とともに越後から関東に赴かれ、常陸(ひたち/茨城県)の小島(おじま)や稲田(いなだ)の草庵を中心として、自ら信じる本願念仏の喜びを伝え、多くの念仏者を育てられた。元仁(げんにん)元年(1224)ごろ、浄土真宗の教えを体系的に述べられた畢生(ひっせい)の大著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著された。

嘉禎(かてい)元年(1235)63歳のころ、関東20年の教化(きょうけ)を終えられて、妻子を伴って京都に帰られた。『教行信証』の完成のためともいわれ、主に五条西洞院(にしのとういん)に住まわれた。京都では晩年まで『教行信証』を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝えられたり、書簡で他力念仏の質問に答えられた。

弘長(こうちょう)2年11月28日(新暦1263年1月16日)、聖人は三条富小路(とみのこうじ)にある弟尋有の善法坊(ぜんぽうぼう)で往生の素懐(そかい)を遂げられた。90歳であった。

浄土真宗本願寺派 総合研究所

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